2015年 クラフト元年 前編

12月31日 大晦日 今日で2015年も終りです。今年最後のブログとして、1年間撮り貯めた写真をスクロールしながら、いろんなことを考えました。

今年はどんな年だったか、仕事、プライベート、全部トータルで考えたところ、一つの答えが出ました。

`クラフト CRAFT 元年`

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もちろん、私、個人的な見解なのですが、世の中の流れを見てもそうじゃないかと。

小売業界の流れをみても、これといって大きな流行というのはなく、それぞれのお店が特色を出してる感じがします。同じ商品でもこの店では売れるが、あちらの店では売れない、なぜか? お客さんが違う、ただそれだけのことだと。個人個人のアイディンティティがしっかりしてきたので、いくらメディアや雑誌で煽ったところで、流されない、そりゃそうですよ、こんだけ物があふれてる世の中、もう既にみんななにがいいか、自分にとってなにが心地いいか、お気に入りの店やウェブサイトにお客さんが付く時代です。個人主導の時代です。

では、クラフト CRAFT とは何か? 定義付けするのは難しく、人それぞれ感じ方は違うと思います。手仕事、手工芸、一つ一つ違う、1点物、時を経て風合いがます、ビンテージやアンティークもクラフトの一つだと思います。じゃあ、クラフトじゃない物とは? 例えば車のパーツ、全て規格どおり、全て同じ、1点のブレも許されない工業製品、精密機械、なんか、そういう物かなと。

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ファッション業界の流れでもビンテージをリメイク、リビルドしたクラフト感、1点物感のある服、デニムを加工した服、70年代頃の自分流カスタム感のある服、刺繍やワッペンがある服、など一手間、二手間加えた服が売れてます。

日本のクラフト`民芸` 最近ではウェブサイトや個人のお店など、民芸品をメインに扱うお店が増えて、とても楽しく、良い流れだと思います。いろいろ、自分が知らなかったことや、これからのヒントなど、店主が面白い店に行く、そこでいろいろ情報を得る、本来の買い物の楽しみを味わえます。

2011年が`民芸元年`と私、個人的に思います。本当の民芸元年とは民芸運動が始まった1926年  1923年関東大震災で京都に移住した柳 宗悦、そこで濱田庄司、河井寛次郎と出会い、民芸運動を始めます。名もなきクラフト、生活雑貨に美を見出します。ですが、1930〜40年代、軍国主義に走る日本、2回の世界大戦で一度リセットされます。

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そして1950年代、戦後の日本、アメリカから伝わった技術や資本と、元々日本人にある物作りの才能が開花、車やエレクトロニクスなど、アイデアや技術、原料を輸入し、物をつくって、海外に輸出、瞬く間に世界トップレベルの先進国になります。司馬遼太郎さんの言葉を借りると、元々`道`の精神で生活してた日本人が敗戦により`術`の精神で世界に躍り出たと。

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1960年代後半から70年代にかけて、多くの民芸店が人気を集めます。それに伴い、アメリカからの文化が日本に入ってきます。原宿にビームスが、千駄ヶ谷にハリウッドランチマーケットができ、日本の若者文化がどんどん変化してきます。海外、特にアメリカからの物や思想が日本に浸透、Made In U.S.Aカタログやポパイなど、メディアや雑誌ができたのもこの頃です。POPYEを紐解く本によれば、1970年代の渋谷や原宿には多くのCIA諜報員がいて、敗戦による反アメリカ運動がおこらないか、日本の若者たちがどういう思想になるか、いろいろチェックされてたそうです。ポパイなどアメリカの文化を紹介する雑誌にはアメリカ領事館の挨拶ページがあったのもそのせいです。多額の取材資金が提供され、編集者たちは2〜3ヶ月、アメリカに滞在するのも当たり前だったとか、なるほど、そういう時代背景や豊富な資金、バックアップがあったからこそ、素晴らしい雑誌ができ、アメリカのカルチャーが浸透、根付いていくわけですね。

80年代にはいり、日本のデザイナー、コムデギャルソンを筆頭に、世界に向けて、ファッションが輸出されはじめます。日本車をはじめとした貿易摩擦も起こります。日本のすぐれたプロダクトが世界中に認められます。この頃、海外に移住した日本人も多く、音楽やカルチャーなど、よりリアルな物が日本に輸入され始めます。90年代はインポートブーム、DCカジュアルが下火で、日本のもの=ダサい、、みたいな、よりリアルでかっこいいアメリカ物がはいってきて、渋カジをはじめとするアメリカンカジュアルブーム、ビンテージ古着も熱狂的に、自分は80年代後半ぐらいからファッションに目覚めたので、もろアメリカ物の洗礼を受けましたね。

そんなインポートブームもあり、90年代には民芸品を売る店も、人気が下火に、、もともと、民芸品=名もなき雑貨、だったのが、作家を名乗る人が増え、値段も上がり、本来の民芸品ではなくなったのが衰退していった原因なのではと。

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2000年代に入り、日本市場のポテンシャルの高さに魅力を感じた海外の企業がどんどん入ってきます。ビジネスにおける`黒船到来`の時代です。ですが、日本人をなめてはいけません、海外から入ってくる情報や物をうまく自分たちの物にする才能に長けた民族です。ユニクロをはじめ、ファストファッションの時代が到来、良くも悪くも、ファッション業界のレベルが数段に上がったのも2000年代、普通に安くてオシャレな服が買える時代になりました。

黒船企業で今でも日本市場に人気があるのは多々ありますが、IKEAとH&Mはその中でも成功してると思います。IKEAは2006年4月、H&Mは2008年9月、日本に1号店をオープンしてます。実は、IKEAは1974年に日本進出してるんですよね、でも時代は日本の民芸やアメリカンカジュアル全盛期、スウェーデンのIKEAは早すぎた?! なんでもそうですが、タイミングが大事、いくら1番最初にやった!とか言っても、要はただのフライング、競技だと失格、早すぎる=体力(財力)の消耗につながり、IKEAは1986年に日本撤退、、、当時の日本IKEAチームがそのままアクタスになったとか。神戸にあったアクタスの店舗、カリフォルニアミッドセンチュリーにどっぷりハマってた自分にとって、値段も手頃で、なんとなくヨーロッパや北欧のセンスを感じる、結構好きでしたね。

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では、メキシコのクラフトが日本における元年とは? これは間違いなく1970年の大阪万博でしょう!当時、日本にはほぼ入ってきてなかったメキシコのクラフトたち、濱田庄司さんや外村吉之介さん、芹沢銈介さんが1970、71年、週刊朝日の連載`世界の民芸`で紹介して人気になり、1970年の万博、メキシコ館にズラッと並んだ`TREE OF LIFE`や`OAXACA WOOD CARVING`、世の中の民芸人気と重なり、メキシコからクラフトが輸入され始めました。原宿、神宮前にもサンティアゴファミリーのウッドカビングを売る店があり、染色家の柚木さんや日本各地の民芸館に保管されてる当時のウッドカービングたちも、この頃に輸入された物です。多くの民芸作家さんたちに愛されたメキシコのクラフトたち、70年代に輸入され始めました。ちなみに、当時の貴重な作品、メキシコ館に展示されてたTREE OF LIFEのビンテージたちは今、スイムスーツデパートメントのお店、バスハウスで見る(買う?)ことができます。

日本における、メキシコクラフトの第1人者といえば、これも間違いなく`利根山光人`さんでしょう!70年代に出版された、バイブルのような本`メキシコの民芸`、彼の活躍があったからこそ、日本に上質なメキシコのクラフトが紹介され、数多くの作家さんたちに影響を与えました。利根山光人さんについては、来年のブログに書きたいと思います。

80年代に入り、安くて大量に商品を輸入する方法で、メキシコや中南米、インドから大量に安い、チープなクラフトが輸入されるようになりました。`やすい``かわいい`で消費され、本来の上質なクラフトたちはアメリカやヨーロッパのコレクターたちに。日本でメキシコの雑貨といえばチープなイメージがついていくわけです。もちろん、それはそれで一般の間口が広がり、良いことなのですが、民芸品の衰退と共に、上質な、民芸作家さんたちが愛した、メキシコのクラフトたちが輸入されなくなっていくのです。