メキシコ南部、OAXACA オアハカ州、最も先住民族が多い地域、古くからの伝統工芸が今も受け継がれてます。その中でもラグの産地で有名なTeotitlan Del Valle ティオティトラン村、ここで織られるウール100%のラグは優れたデザイン性や色彩、高品質なラグとしてアメリカやヨーロッパ、日本、など世界中で人気があります。
村の風景、バスケスファミリーの工房内、のどかでゆったりした時間の流れてるところです。
1429年、コロンブスがアメリカ大陸に到着する遥か昔、中南米には高度な文化、文明を持つ先住民の人々が暮らしてました。メキシコ南部〜グァテマラにかけてはマヤ、アステカに代表される民族のひとつ、サポテコ(Zapotec)族の人たちがティオティトラン村近辺に暮らしてました。ミトラ遺跡(Ruins of Mitra)に見られるレリーフや建造物`永遠に続く、輪廻天性`の考え方を持つ人たちでデザインも素晴らしいです。
約2000年の歴史を持つオアハカラグ、もともとは現地で暮らす人たちの日用品や交易品、ポンチョと呼ばれる民族衣装やサラッペと呼ばれる薄手の織物が中心で、コットンや竜舌蘭の繊維で後帯機(木などに端を引っ掛けて腰にベルトで固定して織り上げていく方法、Back Strap tension loom/Telar de Cintura、ハンモックのような織り方)を使い素晴らしい、細かい模様を織り上げていました。しかし、この織り方では幅がおおよそ50cmぐらい(人の肩幅程度)までしかできず、衣類として着用するには2枚で1枚の織物として、真ん中に模様、ここから首を出してポンチョとして着用してました。
1521年、スペイン人がメキシコを侵略した際、様々な技術や文化が持ち込まれた中でティオティトランに伝わった物が羊(ウール)と高機(水平式固定枠ペダル式織機 Fixed Frame pedal loom)でした。それまでコットン&後帯織で織られてた物がウール&高機が入ってきた事によって、デザインと技術を持ち合わせてた彼等にとってはまさに鬼に金棒、飛躍的に村の産業として発達していきました。
19世紀、メキシコでは様々な革命や戦争が起こりました。1810〜21年のメキシコ独立戦争。スペイン軍と勇敢に戦うメキシコ先住民達が身にまとった、戦闘服としてのポンチョやサラッペ、やがてメキシコを象徴する柄や織物になっていきます。そして独立後の1846〜48年に起こったアメリカとの戦争、この戦争でメキシコは国土の3分の1にあたる現在アメリカのカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、コロラド州、テキサス州を失いました。
そして20世紀、1920〜30年代、工場で大量生産される安い織物や衣類と共に安くて手軽な化学染料が大量に出回りました。昔からの民族衣装から既製服の時代になり、他のメキシコの産地はどんどん織物の生産をやめていく中、ティオティトランだけはウールでのラグを織り続けました。もともとデザイン力があった彼等は伝統的な柄を織り続け、高品質なウールラグを生産してました。しかし、お隣の国、アメリカの合理主義も影響し、古くからの天然染色が廃れ、化学染料で染められたウールを使い、あくまで日用品的な存在のラグ、メキシコ国内やアメリカへの輸出がメインでした。
1935年、アイザック バスケス ガルシア Isaac Vasquez Garcia はティオティトランで織物職人の家庭に生まれます。幼い頃から父や母の働く姿を見て育った彼は8歳の頃、織物を覚えだし12歳ぐらいでは小さなラグを織れるようになります。
1948年、パンアメリカンハイウェイ(アメリカからグァテマラまでメキシコを貫通する高速道路)が開通、ティオティトラン村のすぐ近くを通り、アクセスがよくなった事でたくさんの国内外からの観光客が訪れ、オアハカラグの素晴らしさが知られるようになってきました。
以下の写真は1940年代から60年代頃に撮影されたティオティトランの風景です。
そして1960年代、ティオティトランのラグは一人の人間によって世界中に知れ渡るようになります。アイザック バスケス ガルシア、一人前のラグ職人になったアイザックは 1920年代に廃れてしまった天然染色を復活させます。`もっと美しく強い色に染めたい`特に赤の発色にこだわった彼は化学染料での発色では満足できませんでした。そして、メキシコを代表する画家、ルフィーヨ タマヨとフランシスコ トレドに出会います。ルフィーヨがコチニールの赤、フランシスコがインディゴの青を紹介してくれたことによって天然染色が完成します。 染色法法だけにとどまらず、化学繊維が混じった工場製の糸を使わず、100%ウールの上質な糸を使用する重要性、曲線を織る方法、Pre-Columbian-Motifs、プリコロンビアンモチーフ、スペイン人が来る以前、サポテコ族、先住民族の伝統的な模様を研究、解釈、工夫してラグのデザインに落とし込みます。それらをティオティトラン村の織り手たち、8人の子供達に指導、村全体の産業発展に貢献し、他の先住民族の村とは比べ物にならないほど、発展していきます。
1970年代、世界的なフォークロアムーブメントからティオティトランの村は激変します。それまでは主にオアハカの地元、メキシコ国内、アメリカの一部のみでしたが、オアハカラグの素晴らしさが海外にも知れ渡り、アメリカやヨーロッパ、そして日本からもティオティトランに訪れます。利根山光人(Kojin Toneyama)の著書 The Popular Arts of mexico1974年に出版された本にもオアハカラグの代表的な作品が紹介されてます。
良い物がどんどん広がっていく事は良い事ですが`量の増加は質の低下`品質の保持は難しくなってきます。織り手の人たちも家族を養ったりするには利益重視に走るのは当然の事、外部から様々なデザインが持ち込まれ、安く早く作る事を優先させ、簡略化したデザイン、化学染料の工場製糸を使い、自らの手で自らの首をしめる、そんな状況の中、バスケスさんとそのファミリーたちは自らの財産であるオアハカラグのクオリティーを守るため、バスケスさん自身、アメリカ各地を訪れ、ラグのデモンストレーションを行います。NYのメトロポリタンミュージアムにも認められ、アメリカやヨーロッパの眼の肥えた真のフォークロアコレクター達を虜にしていきます。
70年代頃、NYでのデモンストレーションの写真。ラグの織り手として、伝道師として、インターネットやメールがない1970年代、自ら出向き、伝え、工房には多くの客を招きラグの良さを伝えていったからこそ、現在のオアハカラグのクオリティーが保たれてるのだと思います。つなげる、伝える事の大切さ、もちろん利益がないと生活が出来ないので売る事も大事ですが、自らの作る物、自らのルーツ、揺るぎないアイデンティティと誇りがあるからこそ出来ること、そうじゃなければ8人の子供がいるなか、利益重視にはしり、安くて売れる物作り、、、確実で安全な方を選びますよ、普通の人間だと。。。
日本の濱田庄司、柳宗悦、河井寛次郎、イギリスのバーナードリーチ、それぞれ自国の文化、手作りの物の良さを再確認し、つなげていく事の大切さに気づいた人たち、彼等の活躍が無ければおそらくいまこの2010年代に`民藝`という良さは残ってなかったと思います。 日本のお隣、韓国や中国にはそれぞれ昔、素晴らしい手作りの文化があったし、実際、朝鮮国から伝わった焼き物が多い、20世紀に入って近代の工場文化になって濱田、柳、リーチ的な存在の人間が現れなかった(自分の知る限りでは中国、韓国にはいない)、今の中国や韓国は昔の物はあくまでアンティークや当時の物のコピーでしかない、脈々と現代に受け継がれ、アップデートされ今の生活に適した物ではない、なんかもったいない感じです。
1980年代から現在にかけて、ティオティトランで作られるオアハカラグはメキシコのガイドブックなどで紹介され、メキシコ、オアハカを代表する特産品の一つになってます。`この村のラグは全て天然染色で染めた糸で織られてる`とありますが実際はそうではないです。本当に質のいい糸(Hand Spun Wool Yarn)を天然染色で染め、オリジナリティあるラグを織ってるのはバスケスファミリーを中心とした、ほんの数家族(ほとんどが家族経営の工房)だけです。
そして2003年、初めてティオティトラン、バスケス工房に訪れ、今まで見た事の無い、素晴らしいラグに感銘を受けました。どうしてもここでベストを作り日本のファッション業界に持ち込み、UnFashionのかっこよさを伝いたい!そんな思いで通い続け、熱い思いを伝え続け、2008年に完成したのがこちら
約2000年に及ぶオアハカラグの歴史の中でも1枚のラグを丸めてベストにするのは初の事、もともと温暖な気候の土地、衣類はさほど必要ないし伝統的な民族衣装であるポンチョがある、一枚のラグをわざわざ丸めて着るという発想は無かったでしょうね。良い意味で外国(日本)から持ち込まれたデザイン、発想を現地の織り手達のセンスと技術で出来た、やはりバスケスファミリー工房は素晴らしいです。
2014年、79歳になられるバスケスさん、3人の息子、5人の娘、さらに彼、彼女たちの家族、たくさんの孫たち、孫達の中には立派なラグを織る職人に育ってる人もいます。バスケスファミリーが織るラグは最高級品とされ、メキシコ政府やアメリカのミュージアム、世界中のフォークロアアートコレクター達にも認められてます。今後も彼等一族がオアハカラグの牽引者となり、伝統を守っていってくれる事でしょう。
そして日本の顧客様が満足して頂けるように`サヨナラ、民芸。こんにちは民藝。`の著書にもある通り、誰かが何かのアイデアを持ち込み、活性化(アップデート)していかないといけない、柳宗理の言葉にあるように`伝統は創造のためにある`Traditional Style exists for cause of creation` 自分自身に言い聞かせながら精進していきたいと思います。